ふ〜ふ〜 2000/8/7

私だけじゃないと思いたいんだけど、冷製パスタやおうどんを食べる時に、無意識のうちに「ふ〜ふ〜」ってしてしまう(笑)。一人の時は心の中で「おいおい」とか自分でツッコんでみたりもするけど、皆で食事をしている時とかにこれをやってしまうと恥ずかしさのあまりその「ふ」の口を「う」に見せかけて「う〜!おいしそう!」とかって誤魔化したりして、そんな自分が更に恥ずかしくなっちゃったりもする。これって、習慣病って言うのかな?って考えると自分がパブロフの犬になったような気になる。そして、それは私の哲学のうちのかなり大きな部分を占めている「刷り込み」というキーワードにもつながっていく。10代の頃は「全ては刷り込みによる幻想だ」とかって思ってたことがあった。今も完全に否定は出来ないと思っているんだけど・・・。

大学に入って一番最初の哲学の授業で教授が「あなたは何年生きてきましたか?」と聞いてきたの。18歳だった私はとっさに先生の意図していた答えである「18歳」ではなく、生命としての生きてきた年数である「35億年」と答えた。それこそが私の苦悩の始まりだった(なんて、かなり大げさです(笑))。

これって分かるよね?念のため解説すると、私は私として生まれる前は両親の体の一部で、両親は更に互いの両親の体の一部で・・・・って辿っていくと、私達はこの宇宙に生命が誕生してから一度も死ぬことなく35億年を(この年数に関してはいくつか説があるんだけど私は35億年だと思ってる)生き抜いてきた、とても強い生命だってことになるでしょ。で、その話をした教授も、大半の私の友達もそのことを「素晴らしいこと」として感動していたの。でも、私はそこで悲しくなって思わず授業中にも関わらず泣いてしまったの。だって、その理論を突き詰めていくと愛する人を求めるのも、あるいは誰かを愛することすらが「行き続けようとする生命の意志」になると思ったから(これもかなり偏ってる考え方だよね。って今は思うけど)。今食べたいと思っているものも、選んだ服も、何もかもが私よりも何億年も長く生き続けている生命のしていることで、chikakoという私個人は、その長い年月の中のほんの一瞬だけ体を貸しているに過ぎないような気がして、どうにかしてそこから抜け出したいと思ったの。

正直なことを言うと、今だってそのことを考えると以前程ではないけれど虚しさと怒りのようなものを感じるのも確か。おかしいよね。それも私自身なのに・・・。この手の話は話し出すと終わらなくなりそうだし、まして今も試行錯誤の真っ只中だったりもするから止めておくけど、それでも確かにいえるのは、今でも私はchikakoというただ一人の人でありたいと思ってるってこと。

そんなことで、あの頃の私はくだらないと言えばとてもくだらないんだけど一つ一つの選択に極力刷り込みが入り込まないようにって気をつけてた。それは生命の「種の保存の法則」だけではなくて社会による男らしさや女らしさと言う幻想なども含めてね。だから私はフェミニズム運動なんかにも結構参加していたの。っていうと良く知らない人は「げっ、あのミスコン反対!って言ってる人達でしょ」って思うかもしれないけど、フェミニズムにもいろんな考え方が沢山あって、それぞれで相容れないところも沢山あるの。ましてや、私はどことも相容れないでいたとっても変わった考え方を持っていたので教授に「マルティズム」(私の本名がマルタなので)って言われてたくらい(笑)。

あらら、気付けば「ふ〜ふ〜」からこんなところまで話が発展してしまったわ(笑)。で、つまり言いたかったことは何だったのか良くわかんなくなっちゃったんだけど(笑)・・・多分、今は生命や社会どころか、麺類を食べる時は「ふ〜ふ〜」するなんていう低レベル?な刷り込みに惑わされて、自分で恥ずかしがりつつもウケてるくらい平和ってことかな?!すみません、エッセイ書くならもっとちゃんと文章考えなきゃ駄目よね。ちなみにエッセイも日記も書きながら文章が出来てきて、そのまま読み返しもせずにアップしちゃってるので読み返すと、いつも誤字脱字の上に文章が意味不明ってことが良くある(笑)。けど、今回もそう言いつつアップしちゃお!
次回からちゃんとします。(こういうこと言う人って信用ならないよね(笑))
すんまそ〜ん m(__ __ )m

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