**快楽殺人**

最近TVのニュースは、もっぱらあの快楽殺人の話でもちきりだ。
「酒鬼薔薇聖斗」。私もこの事件はとても気になって毎晩ニュースに釘付けになっていた。それは単に私が心理学を専攻していて、特に快楽殺人に興味があったという理由からだけではないだろう。あの事件は、推理小説を読んでいるようなミステリー性と、古代からあった人間の残虐な欲求を満たすという原始的娯楽性とによって私達を惹きつけ、そして誰もが抱えている虚無への抵抗として私達の心を少なからず揺り動かした事件だと思う。

私はあのニュースに釘付けになった社会に、そして自分自身にゾッとした。何故ならその心理の何処かに、次を期待している気持があると気付いたから。そう、まるでテレビドラマの第2話を見たがっているように。ワイドショーでも様々な分野のスペシャリスト達が犯人像を推測していた。それは確かに捜査の助けになるだろう。でもそれをする、あるいは見たがっている私達の心理の半分以上は推理ゲームを楽しむ気持であり、もっと言えば唯の暇つぶしだろう。犯人が殺人をゲームとして楽しんだのと同じ様に私達も推理をゲームとして楽しんでいる。別にだから悪いと言っているのではない。私は全ての行為は突き詰めれば自己愛だと思っているから、この心理は当然の事だと思っている。唯、それに気付かずに推理ゲームを正義だと思っているのは、無意識という免罪符で人の心を限定しているカウンセラーと同じくらいたちが悪く怖い事だと思っている。

酒鬼薔薇聖斗。彼からの第二の挑戦状(マスコミの言葉を借りるなら)の全文がTVから流れてきた時私は涙が出た。上手く表現できない幾つもの感情が交錯し、そして塞き止められていた水が洪水となって何処かへ向かいたがっていた。現実感の喪失。今ここにいる自分を実感できない。いわゆる離人症と言われる症状を私も抱えた事が有る。その喪失感を悲しむという感情さえなくなって、唯々何日も何日も涙が止まらなかった。泣いているのにその感覚が無い。喜怒哀楽という感情の起伏が一切無くなる。なのに涙と言われているものが
いつまでも目から流れて来る。あの離人症の感覚を言葉で理解してもらうのは多分不可能だろう。。でも今私はここにいる。ちゃんと笑ったり怒ったりする事が出来る。でも、本当にそうだろうか?そもそもあれは本当に精神病という言葉で括ってしまえる症状だったのだろうか?私は断言する。決してそうではなかったと。多かれ少なかれ誰もが抱いた事の有る感覚だったと思う。唯、その程度が違うだけ。でも、まぁ精神病とはその程度に問題のある人の事を言うのだから、そういう意味では精神病だったのだろう。詳しくない人の為に言っておくけど、全ての精神病はその「程度」に問題がある事を指す。例えば、出かける前に何回か手を叩かなくては不吉な事が起こるような気がしてしまう人がいたとする。それが3回ならジンクスで済むけど1万5千92・・・・・となってしまうとそれは強迫神経症と診断されてしまう。分裂病に関しても、ちょっと意味不明なことを言うくらいなら「変わった人」で済むが、それが度を越すと分裂病となる。ヒステリー、パラノイア、全て同じ。要はバランスで、多くの心理テストでも程良い中間である事を良しとしている。つまり精神病なんて共同生活をする上で理解するのに苦労するような個性の強い人あ8決して理解できない訳ではない。分裂病とされている人にもちゃんと起承転結は有る。ただ、考え方や筋道がその他大勢とはちょっと違うだけ。)を排除する為に造られた定義でしかない。

なんか随分話がとっ散らかっちゃったけど、とにかく今回の事件は私の中の、随分昔に閉じ込めて考えないようにしていたものを、深いところから大きく揺さ振った事件であり、そういう意味でとてもショッキングな事件だった。なんだかこのまま迷宮入りしてしまいそうな気配だけど、淳君の冥福を心から祈るとともに、酒鬼薔薇聖斗の痛み(恐らく彼はもう痛みなんて感じないだろうけど)にも冥福を祈りたい。そして、そんな現実感の喪失を生んでしまった社会と、私達一人一人の考え方の見直しをする必要が有ると思う。彼の抱いた感覚に私達は少なからず思い当たる節があるはずだから。言っとくけど腸失は決して彼を擁護しているんじゃないからね。唯、これを単なる狂人による快楽殺人とし片ずければ第2、第3の
事件は免れないだろうと思っているだけ。

P.S.この何日か後に犯人が捕まり、それが14歳だったという事で、この事件は更にマスコミや私達の好奇心を満足させる事件となった。彼が声明文の中でschoolのスペルを間違えたという事が、何だかひどく切なかった・・・。

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